2009年09月17日

感覚を言語化してはいけない

「技」は、視覚化できたり、言語化できたりしやすいのですが、「術」(コツ)はそれがし難いという性質があります。

それ故、「術」を教えるときに気をつけなければいけないのが、「感覚の押し付け」です。

コツとは、多くの場合に感覚的なものとして認識されます。
よくスポーツ選手や達人によって、その感覚が擬音化や言語化されることかあります。
しかし、そのコツができたときの感覚を表現できたとしても非常に難しく、本人にしか判らない言葉になってしまいます。

例えをあげると、「○○の力」などという表現は、本人にはそれがピッタリとするのでしょうが、習う側からすると、意味不明の説明となってしまうことがあります。
ただ、便宜的に名称をつけなければならないことはあるでしょう。

別の例えで言えば、ある料理の味加減を教えるとします。
料理を作って、弟子のAさんとBさんに食べさせます。
Aさんにとっては、「辛い」と感じても、Bさんにとっては「甘い」と感じることがあります。

料理の味は同じでも、人それぞれに感じ方が違うのです。
これはどちらが正しいという問題ではなく、どちらも食べた人にとって真実なのです。
これを「この料理は辛い」と言ってしまうと、「甘い」と感じる人には通じません。
この料理の味を表現するには、「この味」とだけしか言うべきではないでしょう。

術を教えるときは、この料理の例と同じです。
弟子が「できたか、できないか」だけを言ってあげることで、弟子はその感覚を認識しやすくなります。
私自身は、「術」のようなものを教えるときには、この点に気をつけています。

結局、伝書などに書かれるとか「口伝」と書かれている部分は、「こういう感覚は、実技でしか教えられない」ということなので、書きようがないからだと思われます。

私の師である久保田先生の書いた文書の中にも「実技にて指導」とか「口伝」と書かれている箇所が多く見られますが、実技で習っているものは、それだけの言葉で再現できるものなのです。

実際に習っていない他流の伝書を見ただけで解ったように思うのは、思い違いがあることがあるので、気をつけなければなりませんね。
posted by 桧垣源之助 at 20:24| 東京 ☀| Comment(0) | TrackBack(1) | 上達論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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